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絵物語
学童疎開とは

1941(昭和16)年12月8日、日本はアメリカ、イギリス相手に戦争布告し、第二次世界大戦に参戦しました。学童疎開とは、第二次世界大戦末期には日本の戦局は不利においこまれ、米軍による本土爆撃に備え、大都市の国民学校初等科学童をより安全な地域に一時移住させたことをいいます。

当初、国は家族制度の崩壊と戦意の喪失をおそれ、人員疎開に消極的でしたが、本土が米軍の長距離大型爆撃機B29の航続距離圏に入るに及んで、急きょ学童疎開を実施することになりました。 学童疎開は終始個人的な縁故疎開が原則でしたが、1944(昭和19年)年6月30日付閣議決定された「学童疎開促進要綱」にもとづき、縁故疎開先がない国民学校初等科(現在の小学校)3年生から6年生の学童が集団疎開をしました。

学童疎開は、防空の足手まといをなくして都市の防空態勢を強化することと、空襲の惨禍から若い生命を守り、次代の戦力を温存することを目的とした学童の戦闘配置を示すものとされ、縁故疎開・集団疎開とも強力な勧奨のもとにあわただしく実施されました。

学童疎開の対象都市は東京、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の13都市でしたが、その後、京都、舞鶴、広島、呉の4都市が追加されました。

1945年に入り、激化する一方の本土空襲に対処して、3月「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、国民学校初等科3年生以上の全員疎開と1・2年生の縁故疎開・集団疎開を強力に推進し、全国で約60万人が疎開したと推定されます。その結果、縁故疎開にも集団疎開にも参加できず、空襲下の都市に残留した学童もいます。
学童に対する学校教育は停止され、集会所などで訓育を中心とする寺子屋式教育が細々と行われました。

一方、学童疎開の徹底と併せて本土決戦に備え、千葉、茨城、静岡、和歌山県等太平洋沿岸部の集団疎開学童は、より遠隔の地である青森、岩手、秋田、富山、島根、滋賀県等への再疎開を余儀なくされました。

疎開生活は、縁故疎開では疎開先との複雑な人間関係、食糧不足、言葉や習慣の違い、いじめ等に悩み、集団疎開では少国民錬成の場として軍隊同様の厳しい規律・上下関係、空腹、食べ物をめぐる葛藤、いじめ、ノミ・しらみ等に悩まされ、いずれの場合も幼い学童の心に消し難い傷跡を残しました。

学童疎開を顧みるとき、1944年8月22日沖縄の那覇から九州に向かった学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈され、学童775人が犠牲となったこと、1945年3月10日未明の東京大空襲で、卒業進学のため疎開地から帰京した直後の6年生が多数命を落としたこと、また、疎開中にかけがえのない親や家族を空襲で亡くし、戦後の混乱期に苦難の道を歩むことになった多くの戦災孤児がいたことを忘れることはできません。

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